投稿者: masumi

  • 2-1 ”強運レディース”の支え

    第2楽章

    武枝)先ごろ仕事でご一緒した指揮者の飯森範親さんのあるアドバイスを今、思い出しました。
    音楽家の発掘・育成を目的にしたオーディションで、最優秀賞者はオーケストラとの協演ができるというコンサート前の練習の時のこと。フィンランドを代表する作曲家シベリウスのヴァイオリン協奏曲を演奏する新人に、「この作品が、外は零下30度という環境の下で創られたという温度感、世界観を自分の中でイメージし、明確にして演奏すると、作品の第二楽章の音色が多彩になります」って。そのイメージを膨らませるための参考にしてくださいと、ご自分が体験されてスマホに映したオーロラの動画を差し出されたのです。

    成田さんの入院に至る話を聞いて、なぜ、こんなことを思い出したのか。

    オーロラって、どうして発生するのか未だに明らかになっていないことが多いそうだけど、北極とか南極とかといった”極域”の近辺にだけ出現する現象でしょ。成田さんが、自分で決めたところまでの全ての仕事ををやり終え、安堵した夜に高熱が出たことって、究極の領域。その時に幾重にも交錯した成田さんの感情の色合い(心身ともに味わっている将来の不安・怯え、仕事を達成できた安堵感・充実感、そして《「はい、わかりました」と誰にともなく呟き、自分でタクシーを呼んで、身一つで緊急入院するのに、深夜に病院に向かいながら、どこか心は清々しく、とても穏やかでした。》という静謐な透明感……)がオーロラと繋がったのかなあ。しかも、その振る舞いの軽やかさ、痛快さ、茶目っ気といったらないよね!

    成田) ふふっ武枝さん、今思い出してみると、この時の私ってちょっとコミカルだったかも。仕事をやり終えたこのタイミングで熱を出すなんて!偶然とは思えず、出来過ぎの映画のワンシーンのようでもあり、思わず笑ってしまいました。
    でもこの時、ずっと私を見守ってくれていた何者かをとても近くに感じていました。天空に広がるオーロラのような神秘的で温かな何かに導かれて、この夜、病院まで連れて行ってもらったような感じがします。

    武枝)ああ、そういうことかぁ、それって極域を体験した者だけが感じ取れる豊饒の世界だと思います!だなんて、元気になった今だからこそ言えるのですが。

    深夜に身一つで緊急入院して、受け入れ態勢は大丈夫だったの?

    成田) 病院につくと、当直の若い女性医師が笑顔で出迎えてくれました。血液内科の主治医から指示が出ていたようで、「成田さんのことは以前から聞いていました。私が当直で良かったです。これからよろしくお願いします」と。そのエンジェルボイスに癒されながら、その夜は解熱剤と点滴を受け、仮ベッドでしたが、ぐっすり眠る事ができました。

    翌朝は高熱も下がり、しっかり朝食を頂きました。血液内科の病棟に移り、早速、心臓のカテーテル検査や放射線治療が先行して始まりました。

    でも、緊急入院した私には、やり残してきたことがあります。週末土日に一時帰宅の許可を取り、一泊二日で一旦自宅に戻りました。病院でメモしてきたToDoリストを見ながら、仕事の請求書を作成し、部屋の大掃除を清掃業者に依頼し、冷蔵庫を空にして、不動産会社の女性社長さんにゴミ出しをお願いし、保険会社に電話を入れたり、入院に必要な書類を準備したり…。黙々とこなしました。

    これが、オーロラだけを見ていられないシングルの現実というものです。想像するとコメディーのようでしょ(笑)。そして日曜日の午後、「行ってきます」と誰もいない部屋に声がけをし、入院グッズを詰めたスーツケースを持って病院に戻りました。

    武枝)ストレートな言い方になるけれど、生きるか死ぬかの瀬戸際にあっても、冷静に考え、対処できるのが成田さんなのだと、改めて思い知りました。でも、ちょっと哀しい。泣き笑いしている成田さんが目に浮かんできました。

    成田)確かにちょっと哀しいですね。でも、ありがたいことに、この時は一人ではありませんでした。素敵な二人の女性が自宅から病院まで送って下さいました。嬉しかったな〜。本当に心強かった。感謝しきれません。

    武枝)ひとりで考え、決断し、実行していく成田さんだから、底力を信じていると来年夏の仕事のオファーを下さった企業の部長さんだけでなく、周りに理解者や応援団がいないはずはない!闘病に入ってからも多くの出会いがあったと思いますが、病院まで送ってくださる方もあったのですね。ああ、よかった!その二人の女性のことを、聞かせてください。

    成田)本当に、人のご縁には感謝しています。特にこのお二人がいらっしゃらなければ、私は告知後どうしていただろうと思います。それが、以前からの友人でも知人でもないのですよ。私の仕事の一つであるコーチング業界の企業の方で、お名前は存じ上げていましたが、これまで話したこともありませんでした。そのお一人をY子さんとさせて頂きます。

    実はY子さんは、私より1年ほど前、大きく括れば私と同じ血液の大病をされていました。私は怖くてとてもドクターに聞けませんでしたが、Y子さんは、「私はこのままだと余命何年ですか?」とドクターに聞かれ、「一年です。しかも移植しか助かる道はありません」と宣告されたそうです。そこで、ご自身で病院を探し、移植のできる病院に転院して過酷な治療を乗り超え、見事に生還されました。素晴らしいでしょ。私と同じように、一人で決断し闘われたお話に深く共鳴しました。

    同世代で私と同じシングルです。出会いは、私のメンターコーチがY子さんに相談されたようで、「成田さんに直接お電話してもよければとおっしゃっていますが・・」と、ご縁を繋いで下さいました。お気持ちを素直にお受けして、初めての電話で2時間もお話ししたと思います。Y子さんの病状や、シングルが抱える課題、病院選択、予後についてまでをお聞きして、励まされたという言葉では語りつくせないほど寄り添ってもらいました。

    もうお一人はM子さんとさせて下さい。入院前に最後のコーチングトレーニングにどうしても参加したくて、締め切られていたところを無理を言って参加させて頂きました。そこで講師をされていた女性です。これが最後のトレーニングになるかもしれないと思うと、いつもの景色が違って見え、馴染みの顔ぶれも愛おしく、心から楽しむ事ができました。そのお礼を言いたくて帰りにM子さんに声をかけたところ、「話は聞いていましたが、成田さんのことだったのですね!」とみるみる涙ぐまれて絶句されたのを覚えています。

    無理言って申し訳なかったな〜と思いながら帰宅すると、翌日心のこもったメールを頂きました。実はそのM子さんは、先ほどのY子さんの同僚で、その方の闘病を献身的に支えられたご友人でした。そんなご縁から3人で会うことになりました。「なんでも手伝います」「部屋の掃除も行きます」と協力を申し出てくださり、「部屋の清掃業者の紹介」「食事について」「退院後の食材調達」について等、細やかな情報提供をいただいて、どんなに心強かったでしょう。

    武枝さん、私ね、告知以降も何食わぬ顔で仕事していたようにお話しましたけれど、今想えば、告知から入院までの1ヶ月半ほどの間は、弱っていく体に鞭打って、闘いに向けての大切な選択や準備をしなければならず、本当はとても怖かったんです。腹痛と下痢に悩まされたりしてね。ドクターに訴えると「精神的なストレスですね」ですって(笑)

    私の病気については、最小限の人にしか知らせていませんでしたけど、それでも、周囲のアドバイスや自分でつい検索してしまうネット情報に混乱し、一度思考が停止してしまったことがありました。また主治医ではない知人の医師の言葉にも震えました。「1日が命取りですよ!少しでも早く治療を開始しなさい!」と。怖くなって思わずY子さんに電話すると「明日、会って戦略会議をしましょ!今夜は何も考えず美味しいものをしっかり食べてね」と言ってもらっただけで、どれだけ救われたかことでしょう。そういえば、私、いつから食べてなかったかしら…って、我にかえりました。

    一時帰宅から病院に戻る時は、Y子さんM子さんが部屋まで付き添ってくださったのですが、M子さんが3人のfacebookグループを作ってくださいました。グループ名は「強運レデイース」なかなか素敵でしょ!そこには、膨大な量のお役立ち情報と、愛あるやり取りが残されています。今読み直しても泣けてきます。

    この3人のやりとりの記録を、私は一生消すことはないでしょう。入院中に必要なものが出てきた時、スマホからグループに投稿すれば、お時間のある方がお買い物をしてきてくださるシステムですが、朝に夕に届くさりげないご機嫌伺いの言葉も私を楽しい気分にしてくれました。私は一人ではなく、いつも「強運レデイース」と繋がっていられたのです。

    これがどれほど心の平穏をもたらしてくれたことでしょう。文明の利器スマホとfacebookグループの活用は、シングルウーマンの痒いところに手の届く素晴らしいアイディアでした。私はお二人から、身内でも友人でもない者に対する”無償の善意・愛”が存在するのだということを教えられました。本当に頭が下がります。お陰様で、私はお二人に心を預けることができ、いつしか強い絆で結ばれていたように思います。

    そして、病院に送り届けていただいた日の最後に、Y子さんはこんな言葉で励まして下さいました。「病院スタッフは医療のプロ。成田さんは患者のプロになってね」って。私には、「プロ」という言葉が響くことを見抜かれていたように思います。「さあ、本番だ」と、体に力がみなぎりました。

    その翌日10月26日から、いよいよ、抗がん剤と放射線の本格治療が始まりました。

  • 1-6 さあ!本番だ

    武枝)ドクターも成田さんの想いに理解を示してくださったそうで、おそらく、この患者さんとなら、ドクターとしての力を最大限発揮できると思われたのではないかしら。そのドクターとの出会いについては、後で聞いていきたいと思います。それにしても、病気が、成田さんの想いを察して、足踏みして待っていてくれることなんてことがあり得るのでしょうか。

    成田) 想いの強さに、病気が足踏みしたか、体が火事場の馬鹿力を発揮したのでしょうか。でも、そんな私に、体は大きなサインを出してきました。いよいよ脳や心臓の検査結果も出揃い、入院日を決めるカンファレンスの日に、ドクターからまたまた衝撃の報告を受けたんです。「成田さん、実は、心臓に異常が見つかりました。動脈と静脈の間に小さな穴が空いて血液が漏れているようです。このままでは心臓が抗がん剤治療に耐えられないかもしれません」と。

    がん治療をすぐ始めるか、心臓の検査と治療を優先するべきかが、血液内科と循環器内科で話し合われました。そんな時、さらに追い打ちがかかります。翌日、耳鼻科を訪れると、内視鏡で鼻の奥を診ていた医師の顔色が変わりました。

    「成田さん、腫瘍が急激に肥大してきています。もう猶予はありませんよ。治療を急ぐように血液内科に連絡します」と、その場でお電話をされました…。結局、「リンパ腫の状態が待った無しという事で、心臓を24時間見張りながら、がん治療を優先しましょう」ということに決まったんです。ステージも一つ上がっていましたから、もう見切り発車するしかなくなったんですね。最初の告知から、すでに一ヶ月半近くが経過していました。

    さすがの私も、仕事はもう無理だと理解しました。でも、せめてキャンセルをしなければいけない企業様には、伺ってお詫びしたいと思いました。もう時間がありませんから、その日すぐに先方にお電話をしました。11月の仕事を頂いている企業の統括部長とは、翌日お会いできる事になりました。その謝罪の場で、私は、これから病気と闘うための大きな力となる、最高の”応援の言葉”を頂いたんです。

    私が、病名と現状をお話しすると、驚きつつも黙って聞いて下さっていた部長が、最後に力強くこうおっしゃいました。「成田さんの底力を信じていますよ。だから、来年夏のオファーを出しておきます。また一緒に仕事をしましょう。」って…。武枝さん、私ね、この日初めて泣いたんです。告知以降、泣いたことのなかった私ですが、その涙は、病気が辛いからではなくて、嬉しくてありがたくて、感情が涙と共に溢れ出てしまったようです。

    その時初めて、病気を克服した先の自分をイメージすることができたんです。「待っていてくれる人がいる。私は必要とされている。私は必ず戻ってくる。」って確信しました。そうして、お詫びに伺った先々で、愛ある言葉をいただきました。このことが、結果的に私に未来を見据える力をくれたのだと思います。

    だから武枝さんが、「希望に満ち溢れ、輝きながら次のステップに進んでいる話を聴いているような錯覚に陥るのは、一体どういうことなのでしょう。」と感じて下さったのではないかしら?錯覚ではありません!私は、武枝さんの人を深く洞察するその感受性に逆に驚きました。いえいえ、それが武枝幸子さんですけどね。

    でも、その頃本当は、相当体がだるくなっていました。お詫びに伺う電車の中で、つり革を持って立っているのもギリギリの体力でした。気力や気合いだけではどうにもならないこともあると体が私に伝えていました。それでもまだ、10月のスピーチコンサルの仕事だけは全うしたくて、スピーチ本番は見届けられないけれど、最後のセッションまでは全力を尽くそうと思っていました。もし私のこの判断が命が縮める事になっても、それが自分の寿命だと受け止められると感じていたんです。こんなこと誰かに相談していたら、きっと猛反対されたでしょうね。だから、誰にも言わず、自分で決めました。

    忘れもしません。この最後のセッションを終えたのは、2015年10月20日です。自分で決めたところまで全てをやり終えて安堵したこの夜。なんという事でしょう。高熱が出たのです。その時の私ですか?変な感じなのですが、「はい、わかりました」と誰にともなく呟き、自分でタクシーを呼んで、身一つで緊急入院しました。

    私の体は本当によく頑張ってくれたと思います。深夜に病院に向かいながら、どこか心は清々しく、とても穏やかでした。これで存分に病気と闘えるね〜って。自分と繋がっている何者かに話しかけ、心から感謝している私でした。

  • 1-5 死力を尽くして生まれた“記憶”

    成田) 武枝さんのおっしゃるように、私たちは、生き始めた時の記憶はありませんが、本当はあったんじゃないかなって感じることがあります。でも、大人になるにつれ、その記憶は薄れてしまったのではないかしら。告知を受けた後、私はよくこんなことを呟いていました。
    「神さま、私の魂に戻れとおっしゃるなら従います。でも、もしまだ私にすべきことがあるなら、もう少しだけ命を下さい」なんてね。まったく無宗教で信仰など持たない私ですが、真顔でそんなことを呟いていました。

    「神さま」と言ってはみたものの、それは、生まれた時に繋がっていた、自分を包む何か大きな存在のようでもあり、自分の中の深いところに存在するもののようでもありました。とにかく何かと繋がった感覚がありました。そして、その繋がっているものの声を信じようと思えたんです。

    「自分を信じる」ということは、良い方にだけ盲信するのではなく、どちらになっても受け入れるということだと思います。そんな覚悟が整い、病気を受け入れた途端、不思議なことが起きたんです。あんなに長年苦しんでいた鼻づまりがなくなって、「治ったのでは?」と思うくらい、ひと時元気になったんですよ。自覚症状の無いのが”血液のがん”なのですが、私はこれ幸いに、普通に仕事をし、入院前壮行会と称して仲間とお酒を楽しみ、ランニングをしながら普段通り過ごしていました。

    武枝)母体の中で芽生えた命!心臓の脈打つ肉体となった命は狭い産道の闇の中で、自分の鼓動を聴きながら、その先にある確かな光を感じ取り、命が持つ能力のすべてを出し切り、死力を尽くして突き進むのだと思います。この世に生を享けるためにはそれなりの苦しみを通過しなければならないという原初の記憶が、がんの告知を受けた後、成田さんに蘇った!のでしょうね。

    それにしても、告知を受けた後も普段通りの生活を続けていたなんて!また、びっくりマークがいっぱい!

    成田) 決して逃げていたわけではありませんが、あまりにも考えることが山積みなわけです。私が1番に考えていたことは、「このままだと、どこまで体がもつのか?」「受けている仕事をどこまで出来るのか」でした。武枝さん、私たちフリーランスは、頂いた仕事を全うできないことが、何より辛く悲しいことではないですか?のちに一緒に闘って頂くことになるドクターとも、当初はそのことばかり話していました。そんな私の気持ちを、よく理解して下さったドクターとの出会いについてもお話しさせて下さい。

    武枝)確かに、フリーランスは、肩代わりも尻拭いも含めて誰に託すこともできず、すべての始末は自分が負わなければいけないし、それができないようでは仕事は頂けないですものね。

    告知を受ける前の体調が最悪な時も何食わぬ顔で仕事を続けていたけれど、がんであることが分かっても、請けていた仕事は全うしようとしたのでしょうね。

    成田) 何でしょうねぇ。責任感というより、今まで、仕事に穴を開けたことのなかった私には、自分の事情で仕事をキャンセルすることは、耐え難いことでした。フリーランスが仕事をいただけるありがたさ。信頼と期待に応えたい自分。最後になるかもしれない仕事への情熱などが溢れてきました。だから、その頃の私は、入院をできるだけ先延ばしにしたかったんです。私の頭の中では、「来年の仕事は諦めよう。でもスピーチコンサルをさせて頂いている方の晴れ舞台である10月28日は見届けたい。願わくば、11月末のお仕事までやり遂げたい」と考えていました。

    ドクターも、私の気持ちをとても理解して下さったのですが、「11月末までは難しいと思います。もし高熱が出たら即入院ですよ」と言われました。そんなわけで、体調を見ながら入院日を決めようという事になり、まずは通院で、腫瘍が脳に転移していないか、治療に耐えられる心臓かどうかを調べる検査を受けながら、何食わぬ顔だったかどうかはわかりませんが、誰にも気付かれず、普段通り仕事をしてました。武枝さんのご想像通りです(笑)

    武枝)《「今まで、仕事に穴を開けたことのなかった」「自分の事情で仕事をキャンセルすることは、耐え難い」「フリーランスが仕事をいただけるありがたさ」「信頼と期待に応えたい自分」「最後になるかもしれない仕事への情熱などが溢れて」 「入院をできるだけ先延ばしにしたかった」「来年の仕事は諦めよう。でもスピーチ指導をさせて頂いている方の晴れ舞台である10月28日は見届けたい」「願わくば、11月末のお仕事までやり遂げたい」》

    現実は深刻な病の危険な領域に向かっているというのに、この一連の言葉はすべて希望に満ち溢れ、輝きながら次のステップに進んでいる話を聴いているような錯覚に陥るのは、一体どういうことなのでしょう。

    成田)武枝さん、それは、錯覚ではないと思います。その頃の私は、仕事をしながら、病気を乗り越えた先の未来を見据えていましたから。

  • 1-4 「どう在りたいか」を試される時

    武枝)抽象的で照れる言い方だけど、自分の生きる水脈を探し求め続けている者同士が出会ったという感覚があります。
    私も、小さいころからずっと具体的になりたい職業を思いつかなかったし、親が自分ではなく兄妹を叱ったり注意したりしているのに、それを聞いているだけでも四六時中傷ついている子供でした。

    ただ、子供心にこんな軟弱な精神では世の中渡っていけないと思って、あがいていましたねえ。

    けれど、落ち込みはしていなかったなあ。たぶん、お互いに自分の弱さを自覚している者同士、響き合ったのでしょうね。成田さんの言葉《「求めるものは形あるものではなく、自分の内側にある」感じだったかな。「何になりたいか」というよりも、「どう在りたいか」を考えてました。

    だから、目標を掲げて「掴み取る生き方」より、ちっぽけな自分の思考を超えた「何かに導かれる生き方」に惹かれる》が、とってもしっくりきます。

    あがきにあがいた甲斐あって、今となっては私も少々のことでは傷つかない心にはなっているけれど、皮肉なことに天は強くなりかけた精神を更に試そうとなさる!私も結構、試された口ですが、「心も体もタフ」になった成田さんには、両方の試練が降りてきてしまった。私の場合、肉体的な試練に耐えられる自信はまったくないなあ。

    成田) 武枝さんが、もし私と同じ状況になったら、たぶん耐えられると思うなぁ。私だって、これが自分のことでなかったら、とても耐えられないと思ったでしょう。でも女って、「今」を生きることの出来る生き物でしょ。だから自分に何が起こっているのかが分かれば、覚悟が決まるというか、肝が据わるというか。現実を受け入れる力があると思うの。特に自分の内面と向き合う習慣のある人はそれが出来ると思います。

    でも、体調はどんどん悪くなるのに、病名もわからず、体に何が起こっているのか分からなかったこの時期は、本当に苦しかったですね。そしてランニング中に大量の鼻出血があった時には、さすがに「ただ事ではない」と思いました。
    実家に寄ったあと、東京に戻り病院に行くと、明らかにドクターの様子がいつもと違いました。
    「左鼻の奥に腫瘍があります。これは採取して検査しなければいけません」といつになく厳しいお顔でしたね。数日後、腫瘍を採取して「病理組織診断」の結果を待つことになりました。

    それから、ちょうど①週間後、2015年9月4日の朝のことです。病院から電話がありました。
    「今日どなたかお身内の方と病院に来てください」と。私にはすぐにその意味がわかりました。良い結果ではなかったのだなって…。
    看護師さんに「大丈夫です。私一人で伺います」と返事をしながら、受話器を持つ手は震えていて、明らかに動揺していましたね。病院に着くまでのことはあまり覚えていません。

    武枝)病名が分からないまま、苦しさが増し、どんどん弱っていく自分を奮い立たせていた成田さん。病理組織診断をただ待つしかなかった成田さん。電話の言辞から伝わるただ事ならぬ事態を受け止めなければいけなかった成田さん。事実をすぐには受け止められない成田さん。そして現実の真っ只中に立たされることになる成田さん。それでも「大丈夫です」と1人で病院に向かう成田さん。

    辛かっただろうに、でも、どの時の振る舞いも、哀しいまでに凛としていたのだろうなあ。

    成田)ここからが、本当の意味で、「どう在りたいかを問う生き方」を試されることになります。
    その日、診察室を訪れた私にドクターは、「もう、お察しですね」と、静かな声で話し始めました。
    「はい、大丈夫です。覚悟はできていますから、全て聞かせてください」と私。
    するとドクターは、実は最初から疑ってはいたけれど、発見が難しく、なかなか特定しづらかったこと。検査をしても、それは球場の中で小石を探すほどの確率であること。
    この段階で見つかったことはラッキーであることなどを先に説明されてから、「病理組織診断報告書」を私に手渡され、病名を告げられました。いわゆる”告知の瞬間”です。

    それは「NK/T 細胞リンパ腫 鼻タイプ 」という血液のがんでした。
    私は、初めて聞くその病名を、自分の声でゆっくり繰り返しました…。

    「悪性リンパ腫」って、実は30種類以上もあり、人によって出方は千差万別。ひとくくりには説明できない病気だそうです。私の場合は左鼻腔に見つかったのですが、手渡された報告書の所見にはこう書かれていました。

    「組織学的にはやや不整形で小型〜中型の核を持つリンパ球がびらん性に浸潤する。既存の腺管上皮に浸潤し、腺管を破壊する像が見られる。毛細血管の増生が目立ち、好酸球や好中球も混在している。壊死は目立たない。細胞異形は比較的軽いが、NK/Tcellの著明な増殖を認めます。既往検体と比較してリンパ球の程度は高度」と。

    武枝)この報告書を最後まで読んで、震えが止まりませんでした。「やや不整形」とか「びらん性に浸潤する」とか「腺管を破壊する像」とか「毛細血管の増生が目立ち」とか「好酸球や好中球も混在」とか「壊死は目立たない」とか「細胞異形」とか「NK/Tcellの著明な増殖」とか、専門的な言葉が折り重なる説明の奥に潜む不気味さ……その不気味さが、一体どの程度進行していることを意味するのだろうかと思い巡らす猶予も与えない簡潔さで締めくくられている「程度は高度」という言葉……
    その報告書を読み進んでいく時の成田さんの心のうちを想像しただけで、胸が苦しくなります。

    成田)本来がんを退治するはずのNK(ナチュラルキラー)細胞自体が、がん細胞に犯されることで、発見が難しく治りが悪い。そして腫瘍を切除しておしまいとはならないということでした。そんなことから、10年前には多くの方が亡くなる病気だったそうですが、今は、効果的な治療法が確立されたいるという説明までを聞いたあと、
    「それは、希望があるということですか?」と尋ねると、
    「もちろんです!」と力強い答えが返ってきました。私はそのとき、なぜかホッとしていました。
    だって、私を長年苦しめてきたものの正体が、やっと分かったのですもん。正体が分かれば闘えますから。

    そして、ここからは耳鼻科ではなく、血液内科の領域になるということで、私はこの病気と闘うために、どこの病院で、どんなドクターと、どのように闘うのかなどを早急に考えなくてはいけませんでした。命がかかっています。泣いている暇なんかありませんでした。

    武枝)なんということでしょう。返す言葉が見つからないので、成田さんが告知を受けた時のことを想っていると、闇の中から、チェロのあの深~い音色が聴こえてきました。

    成田)そうですね。本当にそんな感じだったかもしれません。がん告知を受けている間は、時が止まっているような静寂の時間だった気がします。自分の心臓の鼓動だけが聞こえていました。それは静かなリズムを刻んでいて、なんと言えばいいのかな〜。自分の命というものを感じていたと言いますか、”今、私は生きているんだな”なんてぼんやりとその鼓動を受け止めていました。

    でも、この鼓動を止めるかもしれないものの正体がわかった以上、そこからは、現実を受け止め、しっかり対応しなければいけません。
    受けている仕事のこと、保険や入院中の家賃など諸々の支払いをどうするか、個人的に整理しておくことは何か、最小限知らせなければいけない人のこと、そして何より病院選びのことなど…。
    その夜、一人の部屋で優先順位をリストアップしている私がいました。急に現実的な話になります(笑)これが生きている私に突きつけられた現実課題だったのです。

    武枝)《「がん告知を受けている間は時が止まっているような静寂の時間だった」「自分の心臓の鼓動だけが聞こえ」「それは静かなリズムを刻んでいて」「この鼓動を止めるかもしれないものの正体がわかった以上、そこからは、現実を受け止め、しっかり対応しなければ」 「その夜、一人の部屋で優先順位をリストアップしている私がいました」……》

    《「何になりたいか」というよりも、「どう在りたいか」を考え、自分に問い続けてきた》成田さんだからこそ、がん告知を受けた時でさえ、闇からも一瞬で抜け出すことができたのでしょう。そして《ここからが、本当の意味で、「どう在りたいかを問う生き方」を試されることになります。》の覚悟。

    成田さんの言う”試される”は、周囲の目からでもなく、他人の評価という意味でもない。日ごろからどう在りたいかと問いかけている自分に自分が試される時。長年苦しめてきたものの正体、命の鼓動を止めるかもしれないものの正体が分かれば闘えると言い切り、すぐに行動と結びついている。なんと天晴れなんでしょう!

    その話を聞いて、ちょっと不思議な気持ちになりました。お母さんのお腹に命を授かった時って当然、自分が生き始めたなんて意識しないで生き始めるわけだけど、成田さんって、がん告知を受けた瞬間の闇の後、また命の始まりに戻ったんだ~しかも確かな意識と意志を持ち、本当の意味で、「どう在りたいかを問う生き方」を始めたんだ。成田万寿美は二度生まれたんだ、って!

    2017年の年賀状が”新たな成田万寿美を生きるぞ宣言”でもあったということが、今、分かりました。

    成田) はい!まさにそうです。「私は今、産道の暗闇にいるけど、もうすぐ元気な産声をあげるからね〜」って感じで、生まれる前のことを忘れないよう、「産道日記」と題した闘病記録を時々書いていました。やっと病気の正体を知って闇から抜け出したというより、闇にいる自分をしっかり観察しようと思えたんです。ちょうど翌年は還暦になる年でもありましたから、退院したら、赤ちゃんに戻って新たな人生を生き直すのだとイメージしました。すると、生命誕生のエネルギーのようなものが湧いてきました(笑)

    武枝)「産道日記」を書いてたって!しかも、ちょうど翌年に還暦を迎えるという時期と重なるなんて!びっくりマークをいくつ付けても足りません。

  • 1-3 心静かに向き合う

    武枝)御両親に会うのはこれで最後になるかもしれないと思うほどの体調なのに、伝えず、笑顔で会話をして別れたって!その決然とした姿、何と言っていいか言葉が見つかりません。私なんかは、自分の行動が制限されるのが嫌という姑息な理由で(!)親に身辺のことを話さないようにしていた程度で……

    成田) 武枝さん、それは姑息ではないです。知恵ですよね。
    私も親の干渉から逃れるために、若くして家を出て自立しました。その後、会社(リクルート)を辞めるときも、報道キャスターへの転身も、結婚も、離婚も…すべて自分で決めてからの報告でしたから…、父は、「万寿美には考えというものがない」と嘆いていたようです。

    娘の生き方は父の想像の範囲を超えていたのでしょうね。でも親の価値観を押し付けられた子供は、自分で人生を切り開くことのできない人間になる危険性があります。それって、生きる楽しみを奪うことですよね。

    だから、子供が大事なことを親に話さなくなるのは、とても健全な知恵だと私は思います。でも、今回、親に病気のことを話さなかったのは、すっかり年老いた両親には、もう心穏やかに暮らしていて欲しいという想いだけでしたけど。

    武枝)子供が安泰に暮らせることを願うあまり、親は自分の思う幸せや価値観を子に押し付けてしまうのだろうということを、私が客観的に理解できたのは、親の望む枠を私は超えた!と不遜にも自覚した、ちょうど20歳の時でした。青二才のくせして、私は親が望んでいるより先の方に向かって進んでいるんだって、生意気にも思っていましたね。

    今となっては、年相応に成長することは、そう簡単ではないという実感は私にはありますが、成田さんは、その都度、その都度の決断が潔いので、精度の上げ幅が大きいのよ。だから、心配の種になるようなことは親にあえて伝えない……、そういう大人対応ができるのよねえ。

    成田) 武枝さんは、親になられて親の気持ちも理解されたのですよね。私は子供がいないので、そこの想像力が少し足りないかもしれませんね。

    武枝)子供を育てたといっても、私の場合は、自分自身が親からであれ、誰からも行動を制限されたくないので、子供に対してもそうしなかったというに過ぎず、子供にとって何がよかったのか悪かったのか、確たるものを掴んではいません。そして、子供の幸せを願っているからという前提で価値観を押し付けるような親の気持ちには変わらず抵抗があります。
    ただ若いころのように行動を制限されるのが嫌という理由だけで身辺のことを親に話さない、というのではなくなりましたが。

    成田)そこそこ!そこですよね〜!武枝さんと繋がっているところ。結婚しているとかしていないとか、子供がいるとかいないとか、仕事が何かとか、そういう表面上のことじゃなくて、「自分自身の在り方」を見つめもがいてきた者同士として通じ合ったのですよね。その昔。いえいえ、会えなかった間も、そして今も…。あっ、感動してきた(笑)

    武枝)どんなに辛い時もすべて自分で収めてきた成田さんだけど、さすがに、今回は、泣き付きたい気持ちになりませんでしたか。

    成田)それは、全くなかったですね。結局、最終的に悪性リンパ腫という血液のがんの告知を受けた時も親には伝えず、病院も治療法も全て自分で決めました。

    遠くに暮らす高齢の親に心配をかけたくないという気持ちもありましたけど、本音は、アレコレ言われたり、泣かれたりすることで大ごとになるのが怖くて、心静かに病気と向き合いたいと思っていました。

    後に妹には知られてしまいましたけれど、
    「私が本当に危ない状態になるまでは親には言わないでね。」と頼みました。妹はこんな姉を理解して、秘密を共有してくれました。常に明るく振舞ってくれたことが有り難かったです。

    武枝)そうなんだ。妹さんも肝が据わっていますねえ。こういうギリギリの場面で、賢明な振る舞いができるなんて!それにしても成田さんの強靭な精神力には改めて感じ入りましたねぇ。

    そして、ロシア語の同時通訳だった米原万理の著書「オリガ・モリソヴナの反語法」に描かれている、実在した女性オリガと成田さんがダブりました。
    米原さんはお父さんの仕事の関係で1960年代チェコスロバキアの首都プラハのソビエト学校に通い、当時バレリーナを目指していたそうですが、その時の舞踊の教師オリガに魅了され、ソ連崩壊後の翌年、ロシアに渡って、過酷なスターリン時代を生き抜いたオリガの足跡を追いかけているのです。

    その作品の中で、衝撃的なくだりがあるの。国家反逆罪の疑いでオリガは囚われの身となるのだけれど、どんな過酷な仕打ちを受けても折れなかったので、最終的に座っていられる程度の広さの独房に入れられてしまったのね。さすがに肉体的に弱るだろうと思われていたにもかかわらず、その狭い空間でストレッチなどで体を鍛え、くたばるどころか、疑いが晴れて出される時も颯爽としてたって。

    でも、そもそも、生まれつき強靭な精神力の持ち主っているのでしょうか。逞しく見える人ほど、元々はガラスのハートなのではないかと私は思っているのです。
    志があるとか、何か目指すところがあって、密かに心の中で鍛冶屋のように鍛造しているのではないかと。私は、そういう見えない部分に強い興味をかきたてられます。

    成田) 鍛え上げた体で颯爽と独房から出てくるオリガさんの姿を想像して、胸が締め付けられました。すごい女性ですねぇ。私なんか足元にも及びませんが、人が極限状態で最後に信じられるのは、“自分自身の肉体と精神だけなのかもしれない”って、白くて狭い空間で天井を見つめていた私としては、ちょっぴりわかる気がします。体を研ぎ澄ますことで心も研ぎ澄まされるというか、肉体と精神は、命の炎を燃やすための両輪のような気もします。

    でも、それができるのは、自分を信じる力と、「必ずここから出る」「必ず生還する」という強い意思があるからでしょうね。私が、あの体調と先の見えない不安の中でランニングを始めたのも、無意識の生命の欲求だったのかもしれません。ふむふむ、話しながら、なんだかあの頃の自分の行動の意味が見えてきました。

    武枝)その感覚、よく分かります。日ごろ思っていたことを話したり、書いたりしているうちにだんだん自分の考えがクリアになってくること、よくあります。他の機能を働かせることで、脳が活性化され、別の回路と繋がるのでしょうか。

    成田)そうですね。内側で考えているだけではなく、文字や言葉にして外に出すことで、深いところにしまい込んだものが結びつくような感覚があります。私の場合、特に信頼している人と話しているときに起こります。

    武枝)それにしても、最悪の体調の時でも、底から生命の欲求が湧いてきたなんて、何という生命力!

    成田) 「成田さんは強いですね」とよく言われますが、決して強靭な精神力など持ち合わせてはいません。それどころか、子供時代は心も体も弱々でしたし、人生の志というものも特にありませんでした。あえて表現するなら、「求めるものは形あるものではなく、自分の内側にある」感じだったかな。「何になりたいか」というよりも、「どう在りたいか」を考えてました。だから、目標を掲げて「掴み取る生き方」より、ちっぽけな自分の思考を超えた「何かに導かれる生き方」に惹かれる人でした。

    だから、安定していた仕事を手放してでも、畑違いの報道キャスターにチャレンジしたのでしょうね。そこは今も変わりません。「私はどこに行くのかな〜」っていつも思ってる。そして根拠なき直感による選択をする(笑)そうして導かれるままにいろんな経験をしていくうちに、私は強靭と言うより”タフ”になっていったと思います。

    弱さも持ち合わせたままでね。「心も体もタフ」と いうのが、腑に落ちる感じです。鋼のような強い女にはなりたくないですもんね。その昔27歳の私にとって、武枝さんとは、この弱さと強さの両面で話ができる”奇跡の出会い”でした。

  • 1-2 見えない不安の中で

    武枝)以前、クモ膜下出血で倒れながら一命を取り留めた女性からこんな話を聞いたことがあります。最初、その方も近くのクリニックで風邪と診断され、処方された薬でも激しい頭痛が治らず、おまけに毎日ジャンプをして血液循環をよくするようにと勧められて、「様子を見ましょう」と言われたって。そのアドバイス(?)を実行していたら意識を失って、救急車で搬送されたそう。その病院の医師の診立てが正しく、すぐさま手術をして、生きながらえることができたって。で「お医者さんの言葉だから間違いないって思ったのが間違いでした。好転もせず、更に悪くなっても新たな手を打ってもらえず、様子を見ましょうと言うようなお医者さんにはさっさと見切りをつけ、セカンド・オピニオンを探すべきですね」と述懐しておられました。
    成田さんもギリギリのところで啖呵を切って、その病院を離れたから今があるのですね。危ない危ない!

    がん告知を受ける前の状況を聞くだけでも、私は卒倒しそう……肉体的精神的苦痛も、その治療による副作用の苛酷さについても、周囲の者はその万分の一も分かり得ないでしょう。ただ、伝達力に長け、自分を客観視できる成田さんから話してもらえたら、闘病の日々の辛かった、苦しかったこと、そしてそれ以外の事についても少しは理解を深められるかもしれないと思うのです。

    体調がすぐれないまま不安を抱えての2年近く、その時期のことからまず聞かせてください。おそらく平気な顔をして仕事を続けていたのでしょ。

    成田) そうそう!啖呵を切ったから今がある。私は結構、辛抱強く話せばわかる人間だと思いますが(笑)地雷を踏まれると啖呵を切る。昔からそうでしたよね。私にとって、啖呵は思考を超えた心の叫び。その声には従うのみです。私たち日本人は医師に遠慮し過ぎのような気がします。自分の違和感や意思をきちんと伝え、時に病院を変える決断も大事です。幸い東京には病院も医師も失礼ながら星の数ほど・・。今や「患者が医者を選ぶ時代ですよ」と、後にあるドクターがおっしゃってました。私が一緒に闘っていただくドクターを決めたときのことについては、がん告知を受けてからのところで改めてお話ししたいと思います。

    鼻の手術後ですが、なぜか激しい首の痛みが続いていました。手術中、血圧が乱高下してちょっと大変だったと後で聞きましたけど、意識は深い眠りの中にあっても、肉体は緊張で硬直してたんだなと思うと、自分の身体が愛おしくなりました。
    「よく頑張ったね〜、耐えてくれてありがとう」って・・。

    それでも、あとは日にち薬とばかりに、武枝さんのご推察通り、すぐに仕事を再開し、5月の出版後は、編集者さんと書店挨拶周りをしながら、講演会や記念パーティーと大忙しでした。今思えば、少し疲れやすかったとは思います。その年の暮れに風邪をひき、私が主宰している会の望年パーティーでは、立って挨拶もできないくらいだったのに、最近体がなまっているのかな〜くらいに思っていたんです。

    その頃から、よく熱を出すようになり、また少しずつ鼻の通りが悪くなってきて、また抗生剤を変えながら、吸引にも通っていました。ドクターもあらゆる可能性を疑い、色んな検査をして下さいましたが、毎回「アレルギーも悪いものはありませんね」という結果でした。
    そこで私は、体力をつけることだと考え、マラソンクラブに入ったんです。可笑しいでしょ。前向きもほどほどにしろ!ですよね。

    ところが、ある日の検査で、とうとう抗生剤に対する耐性菌が見つかってしまいました!長く抗生剤を服用し続けたことによると思われます。こうなるともう薬はありません。即入院して、さらに強い抗生剤を点滴で投与するしかないと言われました。

    でもそれは、入院という名の隔離状態。人との接触を禁じられ、病室から出ることを許されなかったんです。看護師さんたちも防護服のような格好で部屋に入って来られます。この時だけは、
    「私はバイ菌か!」「一体何が起こっているの?」って、泣いてしまいました。
    がんが見つかる3ヶ月ほど前のことです。と…ひとまずここまでにしましょうか。武枝さんが辛そうに見えます(笑)

    武枝)うんうん、意識を失いそう……その極限でも前向きな姿は、仕事の場面でたびたび目の当たりにしました。特に迫力があったのは、報道番組で女性のメインキャスターを務めた時。今でこそ珍しくないけれど、その先鞭をつけたのが30歳の時の成田さんです。引き受けたからには納得のいくまで番組スタッフと議論もし、腹をくくってやってのけましたからねえ。大変なこともたくさんあったでしょうけれど、貴重な体験でしたよね。

    成田) それはもう、人生が一変するほどの出来事でした!!それまでは武枝さんと一緒に、テレビの黄金期を味わいつくすような楽しい番組を担当していましたもんね。遅れてやって来た青春時代でしたよね〜。ところが一転、報道というシビアな世界で、毎日、キャスターとしてカメラにさらされることは並大抵の緊張感ではなかったです。

    女性キャスターも珍しい時代でしたが、局外の人間が報道番組のメインキャスターを担当するというのも、当時の放送局としては思い切った挑戦だったのではないかしら。プレッシャーでいっぱいでした。

    当時は、パソコンもない時代で、原稿は記者の手書き。中にはクセの強い殴り書きのような原稿を、生放送直前に渡されることもよくあり、下読みできずに読み間違えても、恥をかくのはアンカーのキャスターです。
    毎日自分の力不足を責めていたのですが…ある日とうとう我慢の限界に達し、番組終了後、
    「もうやってられません!」と啖呵を切り、原稿をデスクに叩きつけて帰ったことがありました。今思い出しても恥ずかしい行為です。

    でも怒りをぶつけることも、時には大事なのかもしれない…って学んだんです。前にも書きましたが、“啖呵は心の叫び”ですから。翌日、感情的な態度を謝罪しようと出勤しましたら、なんということでしょう。逆に、当時の報道部長が、部員全員の前で私に謝って下さったのです。

    「昨日、成田さんが帰ったあと、みんなで反省会をしました。今日からは本番20分前までに原稿を書けない記者の原稿は採用しないことにします」と。
    申し訳ないやら感動するやらでしたが、それから私も変わりました。

    武枝)さすが、成田さんを見込んでキャスターに起用することを認めた部長ですねえ。その対処で、成田さんも変われば、スタッフも今までとは違ってきたでしょうね。

    成田) 記者さんが取材から戻ると、できるだけ私も編集室に行って会話をしました。分からないことを質問すると、皆さん面倒がらずに熱心に教えて下さいました。その場で一緒にVTRを見ながら原稿の下読みもしました。私が文字のクセを見て(当時は手書き原稿だった)誰の原稿かがわかるようになってきた頃から、少しずつキャスターとして認めてもらえるようになっていったんじゃないかしら。

    それまで報道の現場を全く知らなかった私が、この大役を引き受けることにしたのはプロデューサーのこんな言葉でした。「ニュースは、伝え手の感性が大切」。そのことを思い出したんですね。私の役割は、上手に原稿を読むことではなく、伝え手(記者や番組に携わる人達)の想いを、どんなキャスターコメントで紡ぐのかにある。そう思えたんですね。
    本当にあの時代の経験は、私の財産です。

    武枝)音楽でも、演奏者の感性や、作曲家の意図していることを譜面から深く読み取って表現してこそ、聴いている者に感動を与える、それと同じことですものね。

    話は戻りますが、立って挨拶もできないほど弱っていた時に、体力をつけようと考え、健康でも酷なマラソンを選ぶのですねぇ……そして先に待っていたのは、無菌室での隔離状態だったのですね。
    その狭くて白い一室で、何日間、どのように時間を費やし、何を思っていたのでしょう。もう少し詳しく話してもらって大丈夫ですか。

    成田) もちろんです!なんでも聞いてください。点滴治療は2015年5月7日〜11日の5日間です。
    無菌室というのは、本来は自分が悪い菌に感染しないように入るところでしょ?ところがその時は、私の中に生まれてしまった強力な耐性菌を、病院内に感染させないための隔離のように感じました。
    「健康な大人には感染しないけど、新生児室が近いので廊下に出ないでください」と言われました。通常のトイレ付きの個室で、ベッドに釘付けの点滴治療を受けました。ドクターは、完全に菌を死滅させるためには、あと2日間点滴を続けたいとおっしゃいましたが、いったん熱が下がり菌が消滅したところで、私は仕事があることを理由に退院し、通院に切り替えました。
    これ以上、この狭くて白い空間にいると、心が持たないと思ったんです。でも、その後の体調は最悪で、風邪のような熱を出す日も多くなっていきました。この頃、新しく始まる大きな仕事も抱えていたので、今振り返ると一番辛い時期だったと思います。

    季節は夏になり、私は精神力を鍛えようとばかり、炎天下のランニングを続けていました。体重が6キロ減ったのを“ランニング効果”だなんて自慢していたのですから、全くノー天気ですよね。
    そして、2015年8月22日。伊勢路をランニングしていた時に、突然大量の鼻血がありました。
    さすがにちょっと怖くなりましたが、すぐに病院には行かず、その足で三重県の実家に向かいました。何故か「両親に会うのはこれで最後になるかもしれない」と思ったんです。偶然、滅多に会わない妹も来ていて、とても嬉しかったことを覚えています。体調のことは話さず笑顔で会話をして、翌日東京に戻りました。

  • 1-1 序曲

    武枝)平成29年(2017年)の成田さんからの年賀状に、印刷で「思いがけない病を経験しましたが、お蔭さまですっかり元気です」とあり、更に「不躾ながら、賀状での新年のご挨拶は今年で失礼させて頂きたく存じます」と書かれていて、それなのに、余白には自筆で「今後とも、よろしくお願い致します」と。

    それを見て、えっ、どうしたどうしたと!?!?のマークが頭の中で飛び交い……それだけじゃなく、成田さんが普段あまり発することのない呻き声のようなものも聴こえたの。電話をかけて、癌に苦しんでいたことを初めて知り、仰天してしまいました。

    考えてみれば、成田さんが東京に活躍の場を移して以来、電話をかけるのは20数年ぶり。まさかそんな事態になっていたとは。

    成田)心配させてごめんなさい。あの年賀状は、復帰からちょうど一年が経ち、”新たな成田万寿美を生きるぞ宣言”でもありました。呻いていたというより、元気だからこその人生節目の年賀状だったのですが、驚かせてしまったようですね。
    でもそのお陰で懐かしい武枝さんの声を聞くことができたのですから、嬉しかったなぁ。

    病名は悪性リンパ腫という血液のがんです。
    2015年の夏に告知を受けました。親にも知らせずこっそり一人で闘病しましたが、私はなぜかその時、”必ず生きて戻ってくる”という根拠なき自信があったのですよ。

    「がんに苦しんでいた」というより、がんと向き合ってみて、学びや気づきがあまりに多く、誤解を恐れずにいうと、人生が豊かになったような気がしています。
    当たり前にあるものに感謝し、今この一瞬が愛おしく感じられるからでしょうか。
    昔より少しは人の痛みもわかるようになった気がします。
    あのままだと、えらい傲慢な女が出来上がっていたかもしれません(笑)

    武枝)やっぱり、ご両親にも病気のことを知らせていないのですね。
    これまでにも精神的に痛い目や怖い目に遭っている成田さんのことを知っているけれど、こちらに伝わる時にはすでに自身の中で解決しているというか、整理されていて、いつも“泣き言”にはなっていない。
    今回の大病の後に”新たな成田万寿美を生きるぞ宣言”をして、「人生が豊かになったような気がして」というのは、とても成田さんらしい。
    とはいっても、それは“成田さんらしい”では済まされない、苛酷な日々だったと思うのです。

    こっそり一人で闘病していながら、「がんに苦しんでいた」というより「がんと向き合って」きたって、そう言えるほどに昇華するのは並大抵ではなかったはず。
    その気持ちの変遷もじっくり聞かせて下さい。

    2015年の夏に病気の告知を受けたそうですが、その前に何かシグナルがあったでしょ。

    成田)今思えば、最初に体調に変化があったのは2013年秋でした。
    告知を受ける2年近くも前です。

    当初は風邪のような症状だったので町の病院で薬を処方してもらいました。それでも鼻水鼻づまりが改善されなくて、別の耳鼻科に行くと、”慢性副鼻腔炎”との診断でした。
    でも処方された抗生剤はまったく効果がなくて、どんどん強い薬になっていくのが不安でした。

    さらに毎回行われる吸引は、痛い上に治療後鼻血がなかなか止まらなくて・・・、
    半年通いましたが悪化の一途。とうとう堪忍袋の緒が切れまして、
    「いつ治るんですか!もう、限界です。」と啖呵を切って通院をやめてしまいました。
    それからしばらくして、友人から大きな病院の医師を紹介してもらいました。
    そのドクターが、のちに本当の病名を私に告知されることになります。
    それでも、そのドクターの最初の診立ては、まだ”鼻中隔彎曲症”という病名で、そのせいで鼻が詰まりやすく炎症が起きているとのことでした。

    それで全身麻酔で左鼻の骨をまっすぐにする手術を受け7日間入院しました。
    術後は鼻呼吸ができなくて激しい痛みもありましたけど、それより何より鼻の穴いっぱいに詰め物をした顔だけは誰にも見られたくないと思いましたよー。
    同じ手術をした同室の患者同士では笑い合いましたけどね。笑うと今度は痛くて泣けてくるの。

    そうして術後4日目くらいから鼻の詰め物を一日一つずつ抜くのですが、その度に受け皿の底が見えないくらいの大出血で、毎回「午前中絶対安静」になりました。
    でも、出血が止まればケロリとして食事を平らげ、午後はノートパソコンを談話室に持ち込み、2ヶ月後に出版予定の本の最終校正をしてました。

    それが2014年3月末です。窓の外はソメイヨシノが満開で、
    「待っててね〜、桜〜」なんて笑顔で叫びながら、希望に溢れていました。
    この時は、やっと楽になれる。これで完治する。と思っていましたからね。

    でも、甘かったんです。
    ここまでは、序曲に過ぎませんでした。