カテゴリー: 第四楽章 ~希望~

  • 4-7 細胞たちが踊ってる!

    成田)現在のがん治療は、主に毒を以て毒を制する方法なのですが、それは、悪い細胞だけを攻撃するのではなく、良い細胞も一緒に破壊してしまうほどの過酷な治療なのです。あの頃の私は、「良い細胞達まで殺すなんてできない」と本気で思っていました。不思議な感覚なのですが、体の中から、「今闘っているから!もうちょっと待って」と言う声が聞こえてくるような気がしました。その声がどこから来るのか分かりませんが、なんとも愛おしくて、悲しくて、胸が締め付けられるような感覚でした。懸命に頑張っている細胞達まで、一緒に殺してしまうなんて、とてもできない…。

    武枝)《体の中から、「今闘っているから!もうちょっと待って」と言う声が聞こえてくるような気がしました。》って!
    なんて麗しい感覚なんでしょう!
    それこそ、どんなに苦しい時も目をそらさずに、「生(いのち)を見つめて」、心と体の声に耳を傾けてきた者だけが手に入れることのできる、深~い感覚なのだと思います。

    そして、生(いのち)を支えているすべての細胞たちの頑張りにまで気づき、愛おしむ感性は、過酷な治療によって一度は失った機能を復活させた者に授かる恩恵なのかもしれません。
    自分自身のことをより深く知ろうと心の声に耳を傾け続けてきた成田さんが、骨髄移植を迫られた状況の中で、更に「自覚領域」を押し広げましたね。ここに、成田さんを”細胞たちの声を聞いた直感のパイオニア”と呼ばせて頂くことにします。

    成田)おお〜!武枝さん、なんという表現をされるのでしょう。”細胞たちの声を聞いた直感のパイオニア”だなんて、すご過ぎる言葉を頂き、なんだか気恥ずかしさでいっぱいになり赤面してしまいます。でも、誰かに笑われようと呆れられようと、私はあのとき、大真面目でした。そんな私を、武枝さんもまた大真面目に受け止めてくださって本当に嬉しいです。このやり取りのお陰で私はどんな深刻なときも楽しく笑うことが出来ました。私が笑えば細胞たちも笑っていましたよ。

    そして、自分らしく”今を生きる”ことを決めた私は、検査結果を待たずに、秋以降の仕事を受け、「休学届け」を出していた学校にも復学しました。自分の細胞達の声を信じるなら、治療の準備などせずに、とにかく前に進もうと思ったんです。
    「一旦休学にしているので、今期の単位取得は難しい!」と言われていたのですが、「絶対!1月に卒業する」と決めて、その想いを伝えると、なんと希望するクラスへの復学が叶いました。今思えば少々言葉に気迫がこもっていたかもしれません。何事も諦めなければ想いは伝わりますね。
    この時、骨髄移植という現実を受け入れようと準備していた気持ちと、自分の細胞達の声を信じようとする気持ちがハッキリ入れ替わったように感じました。

    武枝)振り返ってみれば、過酷な治療の後、退院をクリスマスの日と決めて、それが実現したことを含めて、いつも自分らしく今を生きることを優先して前に歩を進めた結果、ことごとく望みを叶えてきましたよね。

    でも今回はちょっと事情が深刻だった。骨髄移植の治療を受けるかどうかで、途方に暮れた時期もありました。そんな中でも、自分の中に潜んでいる可能性を見つけようとする強い想いによって、成田さんは、生(いのち)をつなぐために頑張る細胞たちの声を聞いてしまった!そして、その想いに細胞たちは精一杯応えてくれている、そう感じ取ることもできた!だから、前向きになれたのですよね。

    成田)前向きになろうと意図したわけではなく、そうするように何かに突き動かされていたように思います。

    武枝)「何かに突き動かされていた」かぁ~!自分を超えた”何か”とは何か。これは、今回のやり取りの大きなテーマのひとつですね。

    成田)そして、2018年8月8日。いよいよ検査結果が出る日になりました。この日のことを私は一生忘れないでしょう。ドクターの第一声は、こうでした。「当院で採取した細胞からは何も出ませんでした。今すぐ過酷な治療をすることはお勧めしません。」

    私は、ドクターをまっすぐ見つめ、夢のようです!とだけ言いました。そのあと、しばらく言葉が見つかりませんでした。だってセカンドオピニオンの際には「骨髄移植しかない」とはっきり言い切られていたのですよ。正直なところ、にわかには信じがたいものがありました。ドクターは私の気持ちを察したように、「あの時は再発直後だったのであのように言いましたが、あれから日が経ち、今現在は何も見当たらないのですから、今すぐ過酷な治療をすることはお勧めしません。見守って行きましょう」と。

    武枝さん、1月に再発告知を受け、5月に副鼻腔の怪きところを広範囲に切除する手術をして、その部分を生体検査に出したところ、「副鼻腔にがん細胞が点在しています」と言われたのです。そのがん細胞が、全て消えている?!これまでも「再発したら骨髄移植しかない」と何度も聞いていました。でもそれは完治を目指せるものではない過酷な治療だということから、私はなかなか治療を決断する気持ちになれず、「今を生きる」ことを選択して、念願の引越をし、新しい仕事をお受けし、通っていた学校を卒業することも決めて、治療を延ばし延ばしにしてきました。この結果は、本当に「夢のよう」でした。

    武枝)「夢のよう」、本当に「夢のよう」なことが現実になった歴史的瞬間!衝撃的な事実です。こういうことが起こりうるということを、身をもって証明してしまいましたね。

    成田)まだ事態を受け止めきれないまま病院を出ると、空模様が一変し嵐が吹き荒れていました。タクシーに乗り込んでの帰り道、少しずつ喜びが込み上げてきて、自然に笑みがこぼれました。体の中では細胞達が踊っていました!赤や緑の三角帽を被り、手足を元気よく動かして「やった〜!やった〜」と鼻高々に笑いながら踊っている。「やっぱりこの子達を殺さなくてよかった!」自分の身体にシャンパンかけをして、頑張った細胞達と喜び合いたい気分でした。

    帰宅後、武枝さんと電話でエアー乾杯をしてから、本当にシャンパンを買いに行きました。不思議なことに、嵐は通り過ぎ、陽が射していました。あの雨上がりの澄み切った夏空を、私は忘れることはないでしょう。

    武枝)がん細胞も嵐さえも大人しくさせてしまうなんて、本当に凄いなあ~!!あの時に2人が交わした永久保存版のメールを見直してみたら、12時22分に成田さんから「武枝さんとシャンパンがけをしたい~」とありました。F1レーサーたちが表彰台でするようなシャンパンファイトをイメージしながらのエアー乾杯でしたね。

    成田)2人のグラスの中で美しい泡がキラキラ輝いて弾けていました。あ〜、諦めかけていた秋が来る。美味しいものも食べられる。新しい年を迎えることができる。目の前の霧が晴れたようでした。病気にならなければ味わうことのできなかった感動です。これまでの全てに心から感謝しました。

    武枝)成田さんのその気持ちにシビれます。過酷な治療を行うために費やした時間も、苦しさも悲しさも戸惑いも不安もすべて帳消しにしてまだ余りある感動って、想像しただけでゾクゾクします。

    成田)人生はいつだって希望に向かって進んでいると感じています。悲しみや苦しみや不安の真っ只中にあっても、全ては通過点。いつ霧の向こうから女神様の笑い声が聞こえてくるかわかりません。だから明日を信じて、自分を信じて良い心の状態で過ごすことがとても大事だと確信しました。医学的には「がんは消えたわけではなく、抑えられている状態」のようです。でも、私は何があっても、もう恐れません。
    「覚悟」と「希望」の両輪で、軽やかに人生をハンドリングしていきます。
    今回のことを奇跡というなら、その奇跡を起こし続けてみせましょう。病気は悪いことばかりではありません。私は、病気のお陰で心のひだが増えたように感じています。
    たくさんの素晴らしい出会い、たくさんの愛、たくさんの優しさ、たくさんの心に染みる言葉。たくさんの応援。たくさんの自分と向き合った時間。そして、たくさんの愛おしい細胞たち。
    本当にありがとう。

    続きは次の楽章で!どんな音楽を奏でましょうか。
    武枝さん、ここで一句お願いできませんか。

    武枝)わぁ~成田さんの”心のひだ”のあちらこちらから歓喜の歌声が聞こえてきます。
    ここで一句、ということですが、三句思い浮かんでしまったので、まとめて送ることにします。

    霧晴れて生(いのち)の雫きらめける
    祝祭や八月空の青に酔う
    喝采にシャンパンシャワー遠花火
                                            幸子
  • 4-6 必ず霧は晴れる

    武枝)骨髄移植の治療をようやく決断したというのに、その心を折るようなセカンドオピニオンには、親身に相談に乗って下さっている主治医のO先生も耳鼻科のI先生も途方に暮れておられるようですね。I先生がお勧めになるサードオピニオンを探すとしても当てがあるわけではないし……

    成田)O先生は考え抜いた上で大病院のドクターをご紹介くださったと思うので、申し訳ないような気持ちにもなりました。耳鼻科のI先生はご専門が違うので骨髄移植関連のドクター情報をお持ちではありません。

    でも、この時I先生が面白い表現をされました。「成田さん、これは恋愛とは違いますからね、二股でも三股でもかけていいんですよ!」って(笑)。この言葉は、ともすれば途方にくれそうになる重い空気を和ませて下さいました。ふっと肩の力が抜けたのを覚えています。

    恋愛だって、二股はあまりいただけませんが、思いを寄せる相手の本音が見えない時は、そのグレー部分を追求することに心を奪われ過ぎず、別の素敵な男性との出会いを求めたほうが良い場合もありますよね(笑)

    少し話が逸れますが、以前、武枝さんに「成田さんは情が深い」と言われて驚いたことがありました。だって、私は若い頃から男性にのめり込むようなことはなく、関係を切るときはバッサリ切るタイプで、どちらかというと自分のことをクールで薄情けの女かと思っていましたから…。

    I先生の言葉でそのことを思い出したんです。そうそう!相手の言葉に違和感や戸惑いを感じた時、その言葉の真意を正すことにエネルギーを奪われ過ぎず、他のドクターとも会って話してみれば良いのだと。

    武枝)I先生、さすがに当意即妙ですねえ。ドクターからそんなアドバイスを受けたら、大手を振って二股三股をかけられる!!

    成田)何事も迷い過ぎて決められないのは良くないと思いますが、治療法や医師の説明に違和感があるなら、二股三股は、重要不可欠なプロセスだと断言したいですね。

    私は、希望を捨てることなく、自ら骨髄移植のできる病院を調べ、気になった病院のホームページを隅々まで読み、自分の直感だけを頼りにサードオピニオンを受ける病院を探しました。そして、ある病院の理念にこんな言葉を見つけました。「医療を通して人がその人らしく生き抜くことを支援する」。私は「その人らしく生き抜く」という言葉に心が震えたんです。その瞬間、この病院をサードオピニオン候補に決めました。

    武枝)そうでしたね。あの時、成田さんが候補に挙げた病院を「そこがいいね」とも言い切れず、私は胸をかきむしっていました。窮地に追い込まれながらも、一歩踏み出す構えを崩さない成田さんって、剣術の達人の若武者みたい。

    成田)武枝さん、若武者ではなく、「どこからでもかかって来い!」といった老剣士の心境だったかも(笑)

    武枝)姿は若武者、心境は老剣士!いいですねえ。

    で、成田さんは情が深いという話ですが、なぜかっていうと、成田さんは、相手の琴線に触れることを一番大事にしていて、外面的な条件よりも、その想いを最優先するから。お互いに一点でも強く心が響き合っていれば繋がり続ける、よね。

    成田)はい!ご名答でございます。以前武枝さんと話したことがありますが、私たちって両生類的なところがありますよね(笑)。
    生意気な言い方に聞こえるかもしれませんが、「男性だから何かを求める」というものがないのですよね。一人の「人」としては、自分の中に完成形を求めているから、男性に対して、一般的にいう男らしさの条件(力、経済力、包容力、学歴、社会的地位など)にはあまり興味がなくて、多少性格的にバランスに欠けていても、人として強く尊敬・共鳴する部分が一点あれば、「惚れてしまうやろ〜!」なのです(笑)

    ここがなくなるとバッサリ!なんですね。武枝さんと話していると自分のことが本当によくわかってきます。でも、人は、「あなたは男を見る目がない!」と言いますねけどね。

    武枝)女性にとっての結婚の条件が、三高やら三強やら四低やら三生やらと、時代によって変遷しているらしいけれど、そういう条件にかなうかどうかで男性を見ていないものね。確かに、「私たちって両生類的」。言い得て妙です。だから、企画の仕事などで、女の視点でアイデアを出してくださいって言われると、一瞬戸惑ってしまう……自分のこの考えは女の視点によるものかどうか、と。

    成田)その通り〜〜!!「わたしの視点」でしかない。でも、それは男性が想像する「女の視点」とはほど遠いようで、男性スタッフをがっかりさせましたよね。

    武枝)そうなのよね〜!ところで成田さんは、両先生との話し合いの後の電話で、取り乱すこともなく「とりあえず霧の中に座っていることにする」って言ってたよね。あの言葉を聞いて、私にもし絵心があれば、霧の中で一人静かに目をつむって座っている姿を想像してキャンバスに描きたい、もし私に音楽の心得があり、楽器を弾くことができれば、成田さんの心模様を音符に置き換えてチェロで演奏したいと思いました。そのどちらにも共通している通奏低音があります。必ず霧は晴れるという強い想い。望みは捨てないという揺るぎない姿勢です。

    成田)私は本来、物事をグレーにできない性質ですが、いつの頃からか、あまりに霧が深い時は、一度立ち止まり、力を抜いて、無になることも必要だと思うようになりました。この時は自分の深い呼吸にだけ意識を向けています。あとは静寂です。

    あの時、「とりあえず霧の中に座っていることにする」と私が言ったのですか?まったく記憶がありません!でもまさに、その時の私の”心の声”だったのでしょう。覚えていて下さってありがとうございます。確かに、必ず霧は晴れるというような心境でした。「答えは自分の中にある」はずだからです。

    たぶんサードオピニオンを受けても、これまでと同じ見解だろうことは私にも想像できました。でも、私はサードオピニオンに、別の治療法を求めていたのではなく、納得のいく説明をしてくださるドクターとの出会いを求めていたんです。霧を晴らし、”自分の中の答え”を見つけるために。

    武枝)窮地に陥った時は、ジタバタしないで、霧の中に座っている。霧が晴れるのを待ち、心が落ち着いたら、納得のいく見解を外の世界に求める。最終的に、自分の中に答えを見つける。今までも、成田さんがいろんな困難を切り抜けてきた“三段戦法”
    今回のような最大級の危機的状況でも、日ごろから身に着けている行動設計のスキルを最大限に発揮していますね。

    おそらく、最終的に自分の中に答えを見つけようとする成田さんに、何十兆とも推定されている細胞たちが総動員して何かを導きだしてくれることでしょう。

    成田)そうなんですね!霧の中を歩き回れば道に迷う!こんな時はジッと座っているに限る。まだ霧の中ではありましたけれど、静かにエネルギーを蓄えて、私はとても元気でした。

    ちょうどこの頃、武枝さんから送られてきた、この「キセキの対談」第3楽章の記事タイトルが「覚悟が決まれば楽しめる!」でした。「それが成田さんの特性を表す言葉だから!」って。何度かのやり取りのあと、深夜にようやく決まったこのタイトルは、私に大きな力をくれました。奇しくも翌日は、大病院の検査結果が出る日。どんな結果であれ、しっかり受け止めて次なる決断をしようという覚悟ができました。その夜はぐっすり眠ったような気がします。

    武枝)あの夜は二人とも妙に感動して興奮していましたね。検査結果がどう出るか、不安が極致に達しているはずなのに、なぜか心が弾んでいました。そして、成田さんがその時力強く発した言葉が脳裏に焼き付いています。「せっかく頑張っている私の体の60兆もの細胞を、治療で殺すなんてできない!」って。そのセリフを、成田さんの細胞たちが聞いて喜んでいるだろうなと、私も嬉しくなったのを思い出しました。

  • 4-5 お腹が空く!万歳!

    成田)大病院は、要塞のようにそびえ立ち、私は1人でそこに乗り込む戦士の気分でした。初診受付は手続きも多く、ドクターに会うまで、結構な時間がかかりました。

    そして、ドクターとはセカンドオピニオン以来の再会です。私が持参したデータと共に診察室に入りましたので、私のことはあまり覚えてらっしゃらないようでした。開口一番、こうおっしゃいました。「なぜ、うちの病院にいらしたのですか?」と。
    その経緯はもちろん、私の個人的事情や考え方については主治医のO先生が細やかに紹介状に書いて下さっているはずなのですが…、私は机の上に置かれたままの紹介状とデータを横目に見ながら、これまでの経緯。切除した副鼻腔の組織にがん細胞が点在していたこと。その結果を受けて主治医から骨髄移植の勧めがあったこと。などを自分の言葉で説明しました。

    ドクターはセカンドオピニオンの時と同じ厳しい口調で、「前にも言いましたが、治療は骨髄移植しかありません。」ときっぱりおっしゃってから、骨髄を提供してくれる身内がいるかについて聞かれました。私は「いません。肉親には妹がいますが、頼むつもりはありません。もし移植しかないなら骨髄バンクで探していただけませんか」とお願いしました。
    すると、「その時は移植科にご紹介はしますが、あなたをサポートする家族はいらっしゃいますか?」と続けの質問。さらに、「1人ではとても、この過酷な治療を乗り切れませんよ」とおっしゃいました。。

    私はドクターの言葉の意味を掴みきれず、こう聞き返してしまいました。「先生、もし私に同居する家族がいなければ、治療できないということですか?」と。
    私のその質問に対するお返事はなく、「例えば、治療後も酸素ボンベを手放せない生活になることもありますし、合併症で最悪のことが起こる場合もありますから、サポートはもちろん、ご本人の相当な覚悟が必要です。治療するならお仕事も諦めて下さい。」

    私は、もう動揺することはありませんでしたが、指先が冷たくなるほど心が凍りつき、思考が停止してしまいました。
    ただ…ぼんやりとですが、あまり私の治療に積極的ではないのかもしれないと感じていました。

    ドクターは、その空気を断ち切るように、「まずはうちの病院でもう一度全ての検査をしましょう。その結果を見てみないと、今はなんとも言えません!」と。
    この日はこれで終わりでした。診療時間は10分くらいだったでしょうか。2週間後の7月23日にPET検査、24日に副鼻腔の細胞を採取する検査の予約をして、診察室を後にしました。

    2018年7月9日12時42分に、武枝さんに送ったメッセージの記録がスマートフォンに残っています。「病院の帰りです。何も見えなくなりました。でもお腹空きました。築地市場に寄ってお寿司を食べました!美味しくて幸福。帰宅してからご報告しますね」と。
    何、この文章!?しかもこんな日に築地で高級お寿司?自分で自分の行動に呆れています。でも、ゆっくり頭を整理するためにも、何はともあれ、お腹を満たさなくちゃ妙案も出ない!という心境だったように思います。

    武枝)ええええええええええええええええっ~~~

    と叫びたいところですが、初診の様子を電話で私に報告する時の成田さんは、すでに築地市場で美味しいお寿司を食べて、満腹・幸福感に浸り、生命力を注入してからだったので、もうすっかり平常心!

    これまでに何度も泣き叫びたい目に遭いながらも、そのつど突破口を見つけて克服してきただけに、今回は、「もう動揺することはありませんでした」と。瞬時に回復軌道に入ったのですね。

    かねがね私は、未来予想図を自分で明るく描くのも暗く描くのも変更するのも本人の自由だけれど、個人の未来について他人が立ち入るお節介は、どんな高名な方であろうとご遠慮願いたい、と思っています(ただし、職業的占い師は例外。未来を予想してもらいたい方には必要な存在だから)。

    今回の初診の際のドクターの対応は、想像するに、成田さんに対して特別にということではないのでしょうね。同じように深刻な病状のどの患者さんに対しても、一様の話法なのだと思います。ある意味、情を差し挟まない接し方だけれど、情を差し挟む、挟まないに関係なく、骨髄移植をした際に起こるであろう不安材料を並べ立てた患者の未来予想図を提示するのは控えて頂きたいと、私は言いたい。

    それでなくても八方ふさがりの状況。がん細胞が点在している現実があり、転移する前に骨髄移植に踏み切るべきだと勧められたものの、過酷な治療をしても最悪の事態は否定できないと言われ、移植をすべきというドクターの言葉を受け止められないままに、一縷の望みを抱いて治療を決意して、ようやく歩を進めようとしたのに。

    「あなたをサポートする家族はいらっしゃいますか?」の質問には驚きました。心は凍りつき、思考も停止するでしょう。明かりなし、周りは断崖絶壁、孤立無援の部屋に追い込まれてしまった気分。それでも、成田さんはするりとそこから出てきちゃいましたね。自分のストーリーを悲惨なものに仕上げたくない、ワクワクしたいという思いがいつも勝るから、お腹が空く!万歳!

    成田)武枝さん、痛快です!ありがとうございます。
    「自分のストーリーを悲惨なものに仕上げたくない、ワクワクしたいという思いがいつも勝るから、お腹が空く!万歳!」いいなぁ〜。
    武枝さんの声が聞こえて来そうなこの言葉に、笑いながら胸を張ってしまいました。お腹が空くって素晴らしいことなのだ!体が今を生きている証!そして、お腹が満たされるとエネルギーと幸福感が満ちてくる。私たちは本来、そんな単純な生き物なのです。どんな時でも美味しいものを食べたくなる私は、健康体そのものではないですか。お腹が空く!万歳だ!!

    さて、後日、この日のことを主治医のO先生と耳鼻科のI先生に報告に行き、私が感じた違和感と戸惑いを正直に伝えました。O先生は、診察のあと耳鼻科にもご一緒くださって、3人で今後のことを話し合いました。O先生の、科の垣根を超えたこういう対応が、本当に有難いです。

    O先生は、「移植は他の大学病院などでも出来ますが、ご紹介した先生は成田さんの悪性リンパ腫のご専門なのでお勧めしました。でも気持ちがすすまないなら、お断りになっても構いませんよ」と優しく、しかし力強く言ってくださいました。
    耳鼻科のI先生は、「やはり骨髄移植しかないという見解は同じでしたね。ただ成田さんと先生の相性が合わないのかもしれませんね」とおっしゃいました。
    相性?なのかなぁと考えていると、さらに「医者の対応や言い方について、あまり考えすぎない方がいいですよ!そこはグレーにしておいて、サードオピニオンも考えてはどうですか?」と。

    何事も納得して先に進みたい私にとって、違和感や戸惑いを「グレーにしておく」という選択は、驚きでもあり、ある意味新鮮にも感じました。私にはそういう緩さも必要なのかもしれません。確かにそんなところに立ち止まっている場合ではありません。ドクターの言葉の真意を問いただしても、あまり良いことはないような気もしました。

    私は、大病院での検査結果が出る日までに、サードオピニオンを受ける病院を自分で探してみることにしました。

  • 4-4 スペシャルな独り言

    成田)武枝さんに「それが成田さんですから」と言っていただけるとしたら、「それが」ってなんだろうと考えてしまいました(笑)。私は決して、人並み外れた強い人間ではありませんし、うろたえますし、声を上げて泣くこともあります。でも、どん底で現実を一度しっかり受け止めたら、そのあとの切り替えと立ち直りだけは人並み外れて速いかもしれません(笑)。だから心が落ちている時間の私を知る人は少ない(笑)。

    武枝)全くその通りです。

    今でこそ、心が落ちて、また這い上がってくるプロセスをほぼ同時進行で目の当たりにしているけれど、以前、一緒に仕事をしていた頃は、自力で平常心に戻した後に最悪だった話を伝え聞くわけだから、そこにはもう心が落ちている成田さんの影すらなかった! 

    成田)決して楽観主義ではありませんし、現実逃避もできません。自分に起こっていることを痛いほどに受け止めています。瞬間的には心臓がバクバクしたり、息苦しいほどの緊張感で呼吸が浅くなっています。それでも、その苦しみの正体を、一度全身全霊で感じる時間が、私にはどうしても必要なんです。顔を上げるのはそれからです。

    私は、コーチングでも、よくクライアントの「感情」を扱います。「何を”考えて”いますか?」ではなく、「何を”感じて”いますか?」を。人とロボットの大きな違いは、人には「感情」があるという点ではないでしょうか。それは血液のようにいつも流れていて、無視したり止めたりできないものです。「感情」が「行動」を引き起こすといっても過言ではないでしょう。でも、情報過多の時代にあって、昨今は多くの人が自分の感情に蓋をしたり、データや情報優先で、物事を判断しようとしていないでしょうか?こんな時代だからこそ、どんな感情も恐れずに、血液のようにさらさら流しておくことが必要だと思っています。「感情」は「直感力」と繋がっていますから。

    武枝)感情を血液に例えるととても分かりやすいですね。

    血液が淀んで老廃物が溜まり、血管が詰まって流れなくなった時の状態を想像すれば、感情に蓋をすることがどれだけ空恐ろしい事態を招くかが、よ~く理解できます。

    成田)人は、信頼できる人に、自分の感情について素直に話せると、必ず自分で突破口を見つけ、動き出せると感じています。私は、このやり取りを初めて以降、武枝さんに電話をしては、いつも感情を受け止めてもらっていますね。話しながら、どんどん自分の言葉が変わって行き、最後はいつも二人で笑ってる。感謝でいっぱいです。

    そして、「それが、成田さんですから!」の「それが」とは、感情を切り替えるために自分にかける「スペシャルな独り言」にあるかもしれません。最近はもっぱら「通り過ぎた女神様さえ、振り返らせてみせましょう」ですね。このやり取りの中で生まれた言葉ですが、私が私らしく立ち上がり、美しく微笑むことのできる魔法の言葉です!「自分に効く言葉を持つ」ことの大切さを痛感します。

    武枝)「自分に効く言葉を持つ」って、素晴らしい提言!

    どんなにひどい目にあっても、その人らしく立ち上がり、美しく微笑むことのできる「スペシャルな独り言」。たぶん、その言葉を考える心の余裕を持つことが、立ち直る力や、やがては笑顔を呼び込むのでしょうね。

    このやり取りで、成田さんから感謝の言葉をもらってとても光栄ですが、それはお互いさまで、テニスに例えれば、感情という名のボールでラリーを続けているうちに、今までに持ち合わせていなかった新たな自分の球種(感情)に気づけた。一番不思議なことは、自分が受けていない治療の痛みや苦しみを自分の感情の一部に取り込めたこと。それは私にとって大きな意味があります。

    成田)丁度この頃、やり取りを公開するサイトのタイトルや見出し、プロフィールをどうするかなど、新しいステージの準備が進んでいましたね。病気に対する不安より、その作業にワクワクしていました。でも、仕事やしたいことを前に進める一方で、「がん細胞が点在していた」という現実を受け止め、3月にセカンドオピニオンを受けた、あの「移植設備のある大病院」で治療することを視野に入れ始めていました。

    主治医のO先生は、「セカンドオピニオンと治療する立場になるのとでは対応も変わると思います。」とおっしゃいました。

    自分で初診の予約を入れ、1ヶ月後の7月9日、私は主治医のO先生の紹介状とI先生に切除していただいた組織の検査結果を手に、再びあの大病院を訪れました。治療を決意しての初診の日です。

    武枝)切除した組織の検査結果を5月20日に聞いた後、どん底に突き落とされながら、よくぞ立ち上がりましたよね。考えてみたら、何度そんな目に遭わなければいけないのでしょう。

    現実を受け止めたら、そのあとの切り替えと立ち直りだけは人並み外れて速い成田さんとはいえ、立ち上がるための「自分に効く言葉を持つ」成田さんとはいえ、今回ばかりは心配しました。それは、骨髄移植をすべきというドクターの言葉を受け止められないままに、治療を決意しなければならない、矛盾した現実に直面してしまったのですから。

    2人で、「選択肢の中に選びたいものが何もない!時間よ、止まれ」って電話をしながら叫び合ったよね。でも、刻々と時間は過ぎて、7月9日を迎えてしまった。

     

  • 4-3 武枝さん、やり取りの先を託します!

    武枝)《その時間を抱きしめたい》って、「生(いのち)を見つめて」きた者だからこその実感ですね。ああ、感動する!
    それにしても、ちょうど降って湧いたような松山での仕事。とても偶然とは思えません。苦渋の末に手術・入院をすることになっているというタイミングで、成田さんが滅多に見せない涙をご存知の美満さん・知恵さんと再会できるなんて!

    成田)振り返れば、私は繊細で豪快な女性達との出会いに恵まれて来ました。男運は少々問題ありですけどね(笑)

    武枝)あらら!

    成田)そうこうして、引っ越しから11日目の4月27日に慌ただしく入院し、5月1日に副鼻腔の内視鏡手術を受けました。
    ドクターに叱られながらも、引っ越しやお受けした仕事をやり遂げたくて、手術を伸ばし伸ばしにしてきました。 でも、私の体は、きっと自分の想いに応えて頑張ってくれると信じていましたから、達成感と爽快感に満たされての入院だったのです。
    一般的にストレスと言われることも、自分にとってワクワクすることなら、エネルギーが高まることを確信しました。「さぁ、私のGWは成田万寿美のバージョンアップ週間だ!」ってね。

    武枝)出ました。得意のスピリット向上ワードですね。

    成田)なるほど!確かにスピリット向上ワードですね!(笑)
    このように引っ越し以降もめまぐるしく様々なことがあり、ここ数ヶ月間、またやりとりが止まっていました。それは、新次元の扉を開ける前に、まず、ここまで書き進めてきたものを発信したくなったからでした。「もし私に何かあったら、このやり取りの先は武枝さんに託したい」という想いも伝えました。武枝さんにもご快諾いただき、私のホームページの管理をしていただいているweb制作のプロであり友人のhibiさん(通称)に協力をお願いしました。3人で打ち合わせを重ね、この素晴らしい新ページ(新たな舞台)が立ち上がりました。hibiさんには今も大きなサポートをしていただき、私たちにとって強力な仲間を得ました。感謝でいっぱいですね。

    武枝)考えてみれば、いざという時に助けて下さる方との出会いがたくさんたくさんありました。前からお付き合いのある方でも、結束力がより揺るぎないものになっていますよね。私はhibiさんとはお目にかかったこともないのに、東京と大阪にいながらにして3人でZOOM通話で打ち合わせをした時も、一声で通じ合ってしまいました。その後もずっと、親身に敏速に対応して、新たな舞台を盛り上げ、底上げして下さっています。本当にありがたく、嬉しい限りです。

    この私たちのやりとりのweb公開を6月20日にスタートさせたのですが、その決心を下したのには、成田さんらしい潔い理由があるのよね。そして、「もし私に何かあったら、このやり取りの先は武枝さんに託したい」という言葉が私に告げられたことにも……
    そう、5月20日の土曜日のお昼過ぎでした。成田さんからの電話を聞いた時の衝撃を忘れることはできません。

    成田)はい!この日は、5月1日に切除した組織の検査結果が出る日でした。休診日だというのに、耳鼻科のI先生も出て来て下さって、結果を踏まえたお話を伺うために病院に向かいました。
    あんなに前向きに頑張ったのだから、やることやりきっての入院だったのだから、「大丈夫!綺麗でした」と言われるに違いない。と思いながらも、それはどこか祈るような気持ちで、今思い返せば少し緊張していたように思います。

    結果は…、広範囲に切り取った副鼻腔の組織から、「がん細胞が点々と見つかりました」というものでした。「一つではなく、点在している!」という言葉が衝撃でした!
    I先生は「CTやMRIなどには映らなくても、細胞レベルには”ある”ということがはっきりしたのだから、内臓などに転移する前に骨髄移植に踏み切るべきです!」とおっしゃいました。それでも私は、その場で決心などつくはずもなく、「少し考えます」と言って診察室を出ました。フラフラしながらロビーを歩いていると、以前お世話になった看護師さんとばったり出会いました。

    私の様子がおかしいことに気がつかれたようで、私に椅子に座るようすすめてから、その膝元に佇んで話を聞いて下さいました。私は、たった今I先生から聞いたことを泣きながら話していました。久しぶりに人前で泣きました。どのくらいの時間がたったでしょう。看護師さんにお礼を言って、フラフラと立ち上がり、救急外来の出入り口から武枝さんにお電話したのでした。電話に出てくださって、本当にありがたかったです。

    武枝)このやりとりをするようになって以降、私の手帳のスケジュール欄に成田さんの通院日も記すようになり、5月20日は検査結果の連絡があればすぐに電話に出られるようにしていました。すると、今まで聞いたことのない呻きにも似た成田さんの声!立ってもいられないほど憔悴しきっているのが手に取るように分かりました。
    あれほど希望を抱いて、わくわくしながら新しい扉を開いた成田さんに、またしても喉元に刃が突きつけられてしまった。私はただただドクターからの話の内容に耳を傾けることしかできませんでした。でも、話しているうちに、どんどんいつも通りの成田さんの声に変化していったのよね。

    3月21日にも、手術日の相談に行ったにもかかわらず、耳鼻科のI先生から手術をするより骨髄移植を勧めると言われた後に電話をもらって、私たちは途方に暮れ、しばらく呆然としていたことがありましたね。でも、結局は笑いで収めたし、翌日、「こんな状況でも食欲のある自分が可笑しいです」のメールが届いたわけで、この時も、同じように盛り返すであろうことは予測できました。それが、成田さんですから。

  • 4-2 大切な時間を抱きしめたい

    武枝)不動産屋さんのお母さんの、またしてもお導きですか~人の助けを当てにしないで、力の限りを尽くす者だけに差し伸べられる手、ですね。すべてが素敵過ぎます。

    「この子が綺麗なのは、心の中にバラを一輪もっているからだ」という一節が、フランスの作家サン=テグジュペリが書いた小説「星の王子様」にあるけれど、成田さんを見て、お母さんはそう直感されたのだと思います。東京の大都会で、女性が不動産屋さんを続けてこられたこと自体、まず驚きで、あらゆることにおいての目利きでいらっしゃるのでしょう。

    そんな方だからこそ、成田さんをひと目で見抜くことができるのよね。それにしても「あなた、ここに住みなさい。私は人を見る目はありますよ。困ったことがあればなんでも言ってね」と、無条件に信頼して部屋を貸して下さるなんて、豪胆ですねえ。病院にも看護助手のハンサム・ウーマンがいらしたけれど、お母さんにふさわしい言葉は何でしょう。“スーパー・モガ”かな!?

    成田)「スーパー・モガ物語」なんて、ドラマになりそうです(笑)

    2018年4月16日、念願の引っ越しを無事に済ませたものの、大型ごみの処理、新居のしつらえ、機器のトラブル、様々な手続きや住所変更などの雑事に追われながら、翌週には松山出張もあり、27日の入院を控えて大忙しでした。

    そうそう、武枝さん、一緒にテレビの仕事をしていた頃、大阪に「まつやま」というカウンターだけの小料理屋さんがあったことを覚えていらっしゃいますか?松山出身の女性、美満さんと知恵さんの二人でやってらして、私が唯一ひとりでも飲めるお店でした。
    当時、女性初の報道キャスターに抜擢されたとはいえ、実力が追いつかず必死の毎日で、夫婦関係も壊れ「幸せにしてあげられなくてごめんなさい」と私が謝って離婚しました。
    「まつやま」だけが、その頃のわたしの癒しの場所で、愛ある手料理をいただきながら、泣かせてもらった日もありました。大阪を離れる日の夜も、荷物を送り出した後、「まつやま」の美味しい料理とお酒で見送ってもらって、スーツケースを手に、一人上りの最終新幹線に乗りました。

    武枝)はい、よ~く覚えています。二人でも何度もお店に寄せてもらいましたね。いつも両手を広げて迎え入れて下さった笑顔が眼に浮かびます。その深い懐に、私たちはいつも遠慮なく飛び込んでいってました。
    成田さんのキャスター時代は、一緒に飲み歩く機会が減って、時折り会った時も、キャスターの今の仕事を辞めることにしたとか、離婚をした経緯などを聞いてはいたものの、辛い話というよりも、次のステップに進む報告事項として受け止めていて、まさか、そんな状態で上京していたとはゆめゆめ知りませんでした。自分に合った活躍の舞台を東京に求めて行ったのは確かなのだろうけれど、いろんな思いが交錯していたのですね。スーツケースを手に一人淋しく上りの最終新幹線に乗っていたなんて……

    成田)武枝さん、一人片道切符を握りしめて深夜の新幹線!と言うと、確かに淋しい姿を想像しますね(笑)。でも、私は覚悟が決まっていましたから、涙も感傷的な気持ちもありませんでした。その夜は新居近くのホテルで眠りにつきました。新しい街で新しい朝を迎えるために…。

    大阪を出ることを決めた理由や経緯については、当時誰にも本心を話しませんでした。多くの人が、成田万寿美は活動の場を求めて東京に行ったと思って下さってたと思いますが、本当のところは。走り続けてきた仕事に対する一種の燃え尽き状態と、次に進むべき道が見えない虚無感から、実績のない街で、何も無い自分と向き合ってみたくなったんです。と言うとカッコ良すぎますが、実際。住まいだけを決めて仕事はまさにゼロからのスタート!40歳になる私にとっては、決して甘い選択ではありませんでした(笑)。先日武枝さんと京都で会ったとき、あの時のことを初めて少し話しましたよね。今はもう笑って話せますけど。

    武枝)そう、20年目にして、初めてその真相を知りました。同じ放送業界に身を置いていたので、成田さんがその時点で東京に行こうと決意した気持ちはよく理解できました。
    当てもなく飛び込んだ東京で、次に進むべき道を見つけ、どんどん成田さんだからこそできる世界を拡げていっている!よくぞここまで、という思いと同時に、今後、どんな新たな花を咲かせていくのか、ホント楽しみです。

    成田)父はよく「万寿美は考え無しだから!」と言っていましたが、ほんと!私って、若い頃から、煮詰まったときは、積み上げて来たものを捨てても「ゼロに戻りたい願望」があったように思います。松山の二人は、私のそんな危うさを愛おしく思って下さっていたのかもしれません。

    武枝)《煮詰まったときは、積み上げて来たものを捨てても「ゼロに戻りたい願望」があった》って、確かに、そのあたりの思い切りの良さはいつも鮮やかというか、ファンタスティックというか。ただ、積み上げて来たものを捨ててゼロに戻っても、その経験はのちのち生かされますよね。成田さんは、本能的にも経験的にも、一旦ゼロにした方が、先々の行動に飛距離が出ることを体得しているんだと思います。

    成田)そうですね!私って、若い頃から、「心の声」に従わざるを得ない体質だったようです。人は、頭で考え過ぎたり、誰かに相談したりすると、だんだん常識的考えに負けて動けなくなるのではないかしら?だから、大事なことは人に話さず自分で決めるしかないと思うのです!今の年齢になってようやく、武枝さんのおっしゃる《積み上げて来たものを捨ててゼロに戻っても、その経験はのちのち生かされますよね》の意味がよく分かります。「若かりし頃の無謀に思える行動も、自分の心の声に従い決断したことは、全てに意味があり繋がっている」のだと確信します。

    武枝)まったく同感です。着地点の見えないことに向かおうとしているのだから、他人には無謀に見えるのは当然だけれど、自分で決断したことだから、たとえうまくいかなくても、人のせいにはしないし、それに、そうやすやすと実現することを求めてはいないのでしょうね。そう言うと、自信があるように誤解もされがちだし、お父さんのおっしゃる「考え無し」に映るのかもしれませんが、出口が見つからなければ、今まで積み上げてきたものをあえて惜しげもなく壊すのは、常に道半ばという感覚だからなのではないかと思うのです。今、思いついたけど、陶芸家で、自分が気に入らないものは苦心して創り上げた作品でも割ってしまうって方がいらしたけれど、その心境や行為と相通じますね。

    成田)壊したくなる!って感じ、すごくよく分かります。そういえば大阪にいた頃、武枝さんと信楽焼の女性陶芸家さんを訪ねたこともありましたね。結局、「まつやま」の美満さんの紹介で、近場の大阪で陶芸を学び始めたんです。指先に意識を集中し、頭の中を空っぽにできるいい時間でした。

    でも、ある時先生が、「成田くん、ろくろばかり回してないで、そろそろ作品展に出品してみたらどうなの!」とおっしゃいました。その時気づきました。私は作品展に自作を出品したい気持ちは全くないと言うこと。ただ指先で土の感触を味わいながら、ろくろを回している”瞬間”が好きだったんです。以前にも書いたかもしれませんが、私には、やはり「将来何になりたいかより、今どう在りたいか」が大事なようです。
    美満さんも、作品展には興味なさそうでしたが、料理人らしく手先がとても器用で、素敵な食器をたくさん作ってらっしゃいました。二人で先生の登窯がある備前に行き、朝まで窯焚きもお手伝いしました。3000度もあると言う登窯の中で、真っ赤に焼ける陶器の美しさを見たときの感動は忘れられません。その様子を目に焼き付けて、陶芸教室をやめました(笑)

    武枝)ハハハハ……常に道半ばとはいえ、自分の向かう方向はこの道ではないと。そこらあたりの見極めは、自分を知っている者ならではの素早さですね。
    そうそう、「まつやま」のお二人は、踏ん張っている人のタガを緩める不思議な雅量をお持ちですよね。

    成田)まさに!不思議な雅量の持ち主ですね。「うちの女のお客の中であんたが一番好き!成田さん、離婚はしてもええけど、子供だけ作っとき。うちが育てたるから」なんて、冗談か本気かわからないことも時々言われていました(笑)。まんざら嘘でもなかったように思いましたよ。

    武枝)へえ~そんないい話があったんだ!現実に想像できる光景ではありますね。

    成田)その数年後、お二人もお店を閉めて故郷松山に戻り、今は終の住処で二人静かに暮らしていらっしゃいます。
    4月の松山での仕事の翌朝、お二人を訪ねてみました。20年ぶり位になるでしょうか。「75才と80才になったよ」と聞いてびっくり!お互いの元気を確かめるように抱き合いました。知恵さんは、早朝だというのに綺麗にメイクをして待っていてくださいました。私のためのお洒落だということが伝わってきて泣けるほど嬉しかったなぁ。美満さんは、早朝から筍ご飯と煮物を作って、滞在時間の少ない私のために、タッパーに入れて持たせて下さいました。

    空港での別れ際、美満さんが大らかに笑いながら、懐かしい松山言葉のイントネーションでこうおっしゃいました。
    「よう来てくれたなぁ。これが最後かもしれんもんなぁ(笑)」
    どんな気持ちでそんなことを言ったのかは分かりませんが、「そんなことはない!」とは、言い切れない私でした…。
    帰京して、お土産の筍料理をいただくと、美満さんの手作りの味が心に沁みすぎて、鼻をすすって泣きながらいただきました。

    思い切って会いに行って良かったです。大切な人、会いたい人には、思い立ったら会いに行こうと思いました。これを最後にはしたくないけど、「最後かもね」というくらいの熱い想いでその時間を抱きしめたいです。

  • 4-1 「自分サイズの部屋」の真実

    成田)武枝さん、2018年4月16日に無事引越しをしました。

    武枝さんが「新しい部屋の扉の先には、“新次元“の成田さんの、どんな舞台が待っているのでしょう」と言ってくださったように、私は希望に溢れて新居の扉を開きました。都心でありながら静かで、窓の下にはいっぱいの緑、春風が木々の葉を揺らす音が心地よく、鳥のさえずりも聞こえます。
    私は片付けも忘れ、ベランダに出て深呼吸をしました。この部屋に巡り合えて本当によかった!って。そこにも色んな人との出会いやの助けがあったことを思い、心から感謝しました。

    武枝)とにかく、よかった~!の一言に尽きます。

    2017年のクリスマス当日、成田さん復活の祝いに駆けつけた時、病気になった時の住まいを変えて、気分を一新したいって聞いて、大病を経験して更に研ぎ澄まされた成田さんにお似合いの空間を私もイメージしながら、2人で夢を膨らませたのよね。

    そして、何と、成田さんが住みたいと思うような物件を、かねてからずっと探して下さってる不動産会社の女性社長がいらした!この方とのご縁は長く、成田さんのことをよ~く理解して、いつも応援して下さっているのよね。

    そして、その結果、都心のど真ん中に、“五感”を震わせる環境を掴むことができた!扉の向こうに、新次元の成田さんにふさわしい舞台がちゃんと設えられた!さ~て、次なる展開が楽しみになってきました。

    成田)今回の引越しの目的は二つありました。まずは、誰がなんと言おうと「したいことをする」「ワクワクすることはする」という自分の心の声に従うこと。もう一つは、前向きな意味なのですが、「自分の身辺整理」を視野に入れていました。
    もし入院することになった時、サポートしてくださる人に対して恥ずかしくないシンプルな部屋にしておく、もし病院から戻って来られたときには、自分が動きやすく掃除しやすい部屋にしておく。そして、もし私に何かあった時は、できるだけ迷惑をかけないよう後片付けのしやすい部屋にしておくこと。
    そこで…読みなおすことのないだろう本、しばらく履いていない靴、必要のない書類など、躊躇なく整理しました。洋服も小さなクローゼットに入る分だけを選びました。ワークスペースと必要最小限のものだけに囲まれた”自分サイズの新居”は快適そのもので、なんだか重石が取れたように体も心も軽くなりました。これまで、随分必要のない物を溜め込んでいんだなぁ〜と実感しましたよ。

    武枝)入院を控えて、成田さんが、軽やかに「その前に引越し引越し!新しい部屋で気分一新して入院致します」って言ってたけど、それは自分を鼓舞する台詞だったのですね。

    ただ、《誰がなんと言おうと「したいことをする」「ワクワクすることはする」という自分の心の声に従うこと》の気持ちの一方で、《前向きな意味なのですが、「自分の身辺整理」を視野に入れていました。》というのは、軽やかにという言葉だけでは到底済まされない“逡巡”の末に到達した境地だということを、今回は同時進行で関わってきただけに、私は思い知っています。

    そして、どんなに落ち込んでも浮かび上がってくる術を必ず見つける成田さんも知っています。やはり、その通りになりました。
    引っ越しも、入院までにという、自分で決めた制約がある中で、仕事をしながら一人でやりきったのよね。私は遠い大阪にいてヤキモキだけしていました。過労とストレスは禁物の体なのに~と、心配で、確か4月3日の深夜に電話をしたのよね。すると、山積みの本を紐で縛るべきかどうか迷った末に、紙袋に詰め込み、ごみ置き場まで何往復もしてようやく処分し終えたところだって、明るい声で言ってたけれど、たぶんへとへとだったはず。

    段取りの良さや決断力、気力には定評があるけれど、さすがに短期間のうちに整理しての引っ越しはそう簡単ではないよね。体力的には限界だったはずなのに、《ワークスペースと必要最小限のものだけに囲まれた自分サイズの新居》にするための準備をきっちり仕上げてしまいました。驚きの一語に尽きます。

    成田)結構ドタバタしてましたよ(笑)その証拠に、唇の下に口唇ヘルペスのようなものができ、引っ越しの日の朝に、近所の皮膚科で塗り薬をもらいましたから。

    武枝)危ない危ない!いつもギリギリになっても音を上げないからね。

    成田)確かに体はヘトヘトのサインを出していましたけれど、それを上回るワクワク感が止まらなかったのも事実です。だって今回の引っ越しは、愛ある人たちのサポートがあって実現したんですもん。やり遂げずにどうするって感じでした。

    16年ほど前に遡りますが、今回の部屋とのご縁に繋がる、忘れなれない女性との出会いがありました。
    当時、フリーランスとはいえ安定収入がなく、東京に知り合いもいなくて、土地勘もない私は、なかなか良い部屋を借りることができませんでした。そんな時、最後の頼みと飛び込んだ、ある街の小さな不動産屋さんの女性会長が、「あなた、ここに住みなさい。私は人を見る目はありますよ。困ったことがあればなんでも言ってね」と、無条件に私を信頼して部屋を貸してくださったのです。当時すでに80歳を過ぎていらしたと思いますが、自ら素敵な部屋にご案内くださいました。この日の感動を私は一生忘れません。あの日の出会いのお陰で、私は今もこの街に住まわせてもらっているのですから。

    その女性は、今回お世話になった不動産会社社長Sさんのお母さまです。今回の引っ越し直前に98歳で亡くなりました。
    娘さんのSさんは私と同い年で、お母さん同様、親しくして頂いてましたので、今、住んでいる物件の内覧に行く道すがら、お母さんの人生について、いろんなお話をしてくださいました…。
    恩人の悲しい知らせに大泣きしていた私も、娘さんの話を聞くうちに、悲しむより素晴らしい生き方に拍手を送りたいと思うことができました。ぜひ、武枝さんにも知って頂きたい素晴らしい女性です。お母さん(と呼ばせていただきます)は、若い頃はモガ(モダンガールのこと)で、相当のお転婆さんだったそうです。人目も気にせず、新しいことに、何でもチャレンジする女性だったそうです。資格を取るのも好きで、趣味の延長で取った宅建が、ご主人亡きあと、役立つことになったそうです。でも、女手一つで育ち盛りの5人の子供を食べさせることは並大抵ではなかったでしょう。

    結婚当初は、アイディアが止まらず、様々な会社を作られたそうですが、お姑さんとご主人に「嫁が働きに出ているのは近所に恥ずかしいから仕事をやめろ!」と言われ、専業主婦として5人の子供を産み育てることに専念された時期もあったとか。
    お洒落が大好きで、亡くなる直前まで、娘さんに髪を染めてもらい、ネイルサロンに行き、亡くなる2週間前には、若い頃から大好きだった銀座にタクシーで出かけ、うなぎを食べたり、洋服を見たり、銀ブラしながら若い綺麗な女性たちを嬉しそうに見つめてらしたそうです。そして、亡くなる2〜3日前まで、現役会長として店先にも1日1回は座ってらっしゃいました。
    「成田さんのことが大好きで、成田さんが帰った後も、ほんとに綺麗よね〜って、何度も言って、嬉しそうにしてたのよ」なんて、娘さんが教えてくださいました。
    最近は、私が伺うとすぐに手を握ってこられて、「成田さん、大好き!ずっとこの街に住んでいてね」って、なかなか手を離そうとされませんでした。その手の温もりが、今も手のひらに残っています。最後は、ご自宅で「ちょっと息が苦しい」と言って眠るように逝かれたそうです。
    とても98歳には見えない若々しくチャーミングな女性でした。人生で泣いたのは二度だけだそうです。ご主人が若くして亡くなった時と、お姑さんの意地悪で仕事ができなくなったとき!(笑)

    それ以外は、楽しい人生だったとおっしゃっていたそうです。
    あっぱれですよね。どうしたら、こんな生き方ができるのでしょう。今は、ただただ心からお礼を申し上げたいです。そして、今回の部屋は、お母さんの導きだと思います。「ここに住みなさい」と。だから私は、迷いなく「この部屋に住もう!」と決めたんです。人生の新しい扉を開くために。